情報量理論 一からおさらい2


 II 言語の形式
 原風景を音声ないし文字というデータに定着させたものが言語である。言語のちがいとはデータの形式のちがいである。そのむかし、一太郎というワープロソフトがあった。一太郎とWord のちがいがそのソフトの形式のちがいであるように、言語のちがいが形式のちがいである。この地球上には、アラビア語、エストニア語、シンハラ語、ケチュア語、ヨルバ語など、データの形式が無数に存在する。
 ここで、言語のちがいをデータの形式のちがいであるという認識はとても重要である。
 ここで、データ全体を情報であると勘違いするところから、語学教育も翻訳も迷走を始めることになる。
 たとえば、探し物をしていて見つかった時には日本語で「あった」と言う。それ自体がデータであるが、「あった」が過去形であることは原風景を再現するのに何の役にも立たない。それどころが、その妨げになることもある。現実には「あった」ではなく「ある」なのである。それを「あった」と言うのは形式であって、情報ではない。
 日本語のよくできるスリランカ人に「(このスリランカの衣装は)スリランカに行った時に着ようと思ってます」と言った時、その人は「え、スリランカに行ったことあるんですか」と訊き返してきた。「行った時」という形式に囚われて正確な情報の判断ができなかったのである。
 


 III 情報
そこで、もう一度、データとは何か、情報とは何かを考えてみよう。
 情報科学では、何らかの出来事を判断する材料として有用なデータのことを情報と呼んでいる。つまり、データが何もかも情報であるわけではないということである。
 ここで言う出来事がほぼ原風景に相当する。出来事というと、何か事件のようなものだけを思い浮かべる人もいるので、事象と考えてもよいし、心に浮かんだものとしてはまさに原風景と捉えてもらえればよい。また、「判断する」というと、頭で考えるようなイメージがあるので、何らかの事象や原風景を「推し量る」と思えばよく、(データから)原風景を「再現する」と考えればよい。


 月が出ている。
 猫がいる。
 酒が飲みたい。


 何でもよい。
 ここに挙げたのはいずれも言語というデータであり、原風景を再現するのに有用な情報であると思われる。「酒が飲みたい」のはいったい誰なのか、おそらく本人であることがわかる。ほかの誰かなら、「酒を飲みたがっている」、「酒飲みたそう」などとなるので、その点も有用な情報となる。


 情報とは、データのうち原風景を再現するのに有用な要素のことである。


 ここで少し整理しておきたい。データのうち原風景を再現するのに有用なデータを情報と言うのであれば、有用ではないデータはいったい何なのか。それは主として形式である。主としてと断ったのは、言語を操る個人の問題に帰せられるものがあるからである。
 情報科学の定義と情報量理路の定義との間にズレがあるわけではない。情報科学が処理するデータは、形式と情報とがほぼ完全に峻別されているが、われわれが言語を扱う場合には、往々にして形式が情報に紛れてしまう。ここに関係代名詞があると意識した瞬間、その人の注意はその関係代名詞が担う情報よりも、単に関係代名詞が使われているという形式に向けられる傾向が強い。


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情報量理論 一からおさらい1

 情報量理論の宇宙


 情報量理論はもともと、翻訳者を冤罪から救うために提唱したものである。


 翻訳者の日本語のひどさに業を煮やした翻訳会社の社長に招かれてセミナーをさせていただいた時、たまたま課題文に出てきた natural resources を単に「資源」とした訳に対して、翻訳者の一人がつっかかってきた。
「原文にちゃんと天然資源と書いてあるではないか。本人がそれなりの思いをこめたものを、翻訳者が勝手に省略する権利があるのか」
 なにしろ、もの凄い剣幕なので、私もいささか動揺してしまった。
 セミナーで申し上げたことをお聴きになっていらっしゃらないのですかとでも言えばよかったのかもしれない。唯、その時の私はまだ この文中のnatural resources を単に資源としてよい根拠を感覚でしか捉えておらず、訳す意味がないとしか申し上げることができなかった。幸い、社長さんが「それは訳さなくていい。訳したら、うちでは使いません」と言ってくださったので、どうにか火の粉をふりはらうことができた。
 ここでは、われわれの方が強い立場にあったからよかったものの、もしも立場が逆だったら、翻訳者が原文にある語を訳さない欠陥翻訳者であるという冤罪を着せられることになったはずである。


 セミナーでは、お父さんと your father について、文字の上に現われない情報についてお話をさせていただいた。誰のお父さんとは言ってはいなくても、相手の目を見て、しかも敬意をこめて「お父さん」と言えば、「あなた」のお父さんに決まっている。もちろん、兄弟同士で「お父さん」と言えば、our fatherになる。逆に英語の your father には文字の上では敬意を表す要素はないけれども、それは声の調子や態度で表すことができる。
 そこまで言えば、natural resources を資源としてよいことくらい、自ずとわかりそうなものだと思っていたのが甘かった。
 もっともっと隙のない理論を構築していかねば。この時、そう決意を新たにしたのであった。


 情報量理論をまとめようとする時、いつも頭を悩ますのが、いわゆる堂々巡りである。Aを説明しようとすれば、先にBに言及するのがわかりやすく、Bを説明しようとすると、Cが、Cを説明しようとするとAが必要になる。これでは、いつまで経っても始めることができない。


 もっとも、いつまでもそんなことを言ってられないので、とりあえずは、言語の本質から始めてみることにしよう。


 I 原風景
 翻訳を考えるにはまず言語とは何かを明らかにしておかなければならない。
 私たちは日常、何かを考え、何かを思う、こうして、あらゆる瞬間に心のに去来するもの、思想、信条、思考、理念、感情、情念、生理なども含め、頭で考えたことや、心に浮かんだもののことを「原風景」と捉えることにする。
 この原風景というものはあまりにも混沌としており、とりとめがない。心に浮かんだものには形もなければ色もない。他人に伝達するには、それを音声ないし文字のかたちにしなければならない。こうして、原風景を音声ないし文字というデータに定着させたものが言語である。
 さて、この原風景というものは、翻訳を考えるうえでも外国語を理解するうえでもとても大切なもので、ともすれば、原風景をそっちのけにして、文法の理解や構文の解釈に終始することがあまりにも多い。まさに本末転倒と言わざるをえない。


 


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文の流れを作る ordon

 むかしむかし、あるところにおじいさんとおばあさんが住んでいました。


 これが「おじいさんとおばあさんは、むかしむかしあるところに住んでいました」では、文の流れがおかしくなります。


 話を聞く人や文を読む人がついてきやすいように、まずは背景(campon)を出してきて、そのあと初出のものには「が」をつけます。


 この語順と「は/が」が ordon に相当します。


 英語では、語順が自由にならないので、the、人称代名詞などと不定冠詞/無冠詞の別が ordon になります。



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