情報量理論 一からおさらい VI


VI データの制約


 われわれが思ったり考えたりすることは四次元のものであるのに、言語というデータは一次元のものである。基本的にわれわれが知覚する現実は三次元空間で、それに時間が加わるため、ほぼ四次元であると考えてよい。ところが、それを言語というデータに定着させようとすると、どうしても一次元のものにせざるをえない。言語というものが話しことばから始まったものであり、もともとは音声言語であるかぎり、二重奏、三重奏はありえない。どの言語も一本の直線の上に書かれたものとなる。
 四次元の情報を一次元のデータにして伝達するものであるから、できるだけ小さなエネルギーで、できるだけ多くのことを、できるだけ正確に伝えることができるものでなければならない。
 四次元のものを一次元のデータに定着させるにあたって、まず問題になるのは、データを構成する要素をどの順に並べるかということである。具体的には、「何が」、「どうする(どうした)」に相当する要素をどの位置にもってくるのがよいか、さらには「いつ、どこで、何のために、何によって」をどこにもってくるのがよいかが重要な問題となる。
 言語が一次元のものである以上、「どうする(どうした)」に相当する要素、一般に動詞、述語と呼ばれるもの(V)をどの位置にもってくるかを、少なくともある程度は決めてしまわなければならない。このVがいわゆる主語と呼ばれるものの次に来るか、文の最後に来るか、それとも文の初めに来るか、大きくみてこの3通りの構造しか考えられないことになる。


 I   NV・・・・・
 II   N・・・・・・V
 III  VN・・・・・・


 主語と呼ばれるものは基本的に名詞であるので、これをNと表記することにし、言語によってはこれを諸略することもできるので、その場合には隠れた主語としてOと表記することにする。
 このように、Vの位置だけをとっても、データの形式が大きく異なっていることがわかる。言語のちがいとはつまるところ、データの形式のちがいなのである。
 世界には実にさまざまな言語が存在する。フランス語、ドイツ語、英語、スウェーデン語、ノルウェー語、デンマーク語などは明らかにIに属する。スペイン語、イタリア語のようなラテン系の諸語や、ロシア語などのスラブ諸語をはじめ、ヨーロッパのほとんどの言語がIに属し、IIに属するものには、日本語、韓国語のほか、ヒンディー語、ネパール語、シンハラ語などがある。IIIに属するものは比較的少ないが、アラビア語、ヘブライ語、ゲール語などがある。北京語、上海語、広東語、台湾語、タイ語、ラオス語、ベトナム語など位置語と呼ばれるものも、Iに属すると考えてよい。


 さて、この動詞の位置によって、その言語の「運命」が大きく変わってくる。それぞれに一長一短があり、どの位置関係がよいとは言違いには言えない。
 日本語のように動詞を最後にもってくる言語では、動詞を連用形に活用させて次の文につなぐことが可能になるが、主語の次に動詞をもってくる言語では、動詞を連用形に活用させて次の文につなぐことができないため、必然的に独立した接続詞が発達することになる。
 主語、動詞のように並べていくのが論理的だという見方もあるが、「デパートで今日のおかず」まで聞いた時点で、そのあとに「買う」が来ることはほぼ見当がつく。このように、時間、場所などの背景(C)をまず出してきて、次に名詞(N)、最後に動詞(V)をもってくるのは、必要な情報を伝達するうえでは合理的であるとも言える。


 現在、「わが国の経済、また教育の問題を考えるに」の「、また」や、「現在の生活が苦しいこと、および将来に希望がもてないことが」(「現在の生活が苦しく、将来に希望がもてないことが」で十分)のように、動詞で終わる日本語の特質を無視するような文を使う人が多くなっている。一部の人が特に何かを強調する目的で使うならいざ知らず、このような文を当たり前のように使うのは、動詞で終わる言語のせっかくの利点をドブに捨てるようなものである。
 また、語順が自由になるということは、あくまで文法的に可能であるというだけのことであって、語順をいい加減に考えてもいいということではけっしてない。
 ことばというものは、情報を伝達しようとする相手ができるだけ早く、話の流れについてきやすいように構成するべきものである。文法的に語順が自由であるということは、その自由の裏に、できるだけ相手がついてきやすい語順にする責任があるということである。
 その点、日本語ほどには語順が自由にならない英語にはその責任が少ないと言える。もっとも、英語ではその代わりに、冠詞をきっちりしんければ話の流れが作れないようになっている。



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