情報量理論一からおさらい8

もしもアインシュタインが翻訳家だったら 〈第III部〉情報量が翻訳の宇宙を支配する (夢叶舎)
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 VIII 出没情報


 四次元のものを音声に乗せて伝えようとすると、どうしても一次元のものにならざるをえない。当然、頭に浮かんだことを何もかもことばにすることはできない。そこに、わかりきったことは省くという原理が生まれる。そこで、何かあることを伝達しようとする時、任意の言語には、陰性や文字の上に表れる情報L+と、わかりきったものとして音声や文字の上には表さない情報L-とが生じる。
 このL+を有用な情報として選択したのちに、文法的な処理を加えたものがLdである。こうして、文字の上に表れるのはL+であるが、伝達される情報Iは[L+]+[L-]となる。日本語をJ、アラビア語をA、英語をE、フランス語をFとして、この4つの言語でまったく同じことを伝達しようとすれば、I= [J+]+[J-] = [A+]+[A-] = [E+] + [E-] = [F+] + [F-] となるが、[J+]、[A+]、[E+]、[F+]は当然同じものではない。
 [E+]である my father と [J+]である父とは、もちろん同じではないが、そのウラにある[E-]、[J-]を考えれば、このふたつが一定の条件下ではまったく同じ情報を伝えることになる。your father と「お父さん」を比べてみると、一見 your father には敬意という情報「お~さん」が欠けており、「お父さん」には「現在話をしている相手の」という情報 your が欠けているようにみえるが、これも一定の条件下ではそれぞれ [E-]、[J-]のように言外に情報が隠れているだけのことである。
 She came to see me.も [E+]を文字通り日本語にすると、「彼女は私に会いに来た」となるが、[J+]では「来てくれた」ですむことが多い。She、to see は [J-] として処理すればよい。逆に「くれた」は [E+]にはないが、「くれた」によって me の存在がわかる。
 ここまで見てきただけでも、文字の上に表れている情報を残らず訳すことがおかに愚かしいことであるかがわかるはずだ。「原文に忠実であることと、日本語らしい文章にすることは二律背反の関係にある」という命題も、「原文の構造と形態に忠実であることと、日本語本来の文章にすることとは二律背反の関係にある」と読み替えなければ、論駁そのものに意味がないことになる。
 ここで、英語と日本語との関係を考えると、[J-]で伝達できないものは文字の上で [J+] として書き表す必要がある。me を反映させなくても「私」の存在がわかる時には、そのままでもよいが、それでは「私」の存在がわからなくなると思えば、さりげなく「くれた」を入れておくというように考えればよい。
 日本語だけにかぎっても、同じことが言える。たとえば、文を展開するなかで、いったん天然資源ということばを出してくれば、次からは資源とだけ書いても、誰も経営資源や観光資源であるとは思わないので、この場合の「天然」は[J-]として扱うことができる。
 このように文字の上に表れたり、文字の上からは消えたりする情報を「出没情報」と呼ぶことにする。この出没情報が存在するという事実だけをみても、原文の字面にあるものを残らず訳すことが「原文に忠実な」作業であると言えないことは明らかである。
 さて、your father と「お父さん」とは「(一定の条件下では)まったく同じ情報を伝えていることになる」という言い方をした。この「一定の条件」とは文脈のこと、「場」のことである。
 この「場」というものは、特に物理学ではなくてはならないもので、「場」という考えがなければ物理学が成立しないほど重要なものである。ところが、どうもおかしなことに、物理学をやっている人でも、こと翻訳となると「場」の考えなんかどこかに吹っ飛んでしまい、ひたすら father = 父なんていう本当は等価でないものを勝手に等しいことにして、構文の構造解析に走る人がいる。
 科学者たるものが、自分の専攻を離れたとたん、科学者としての姿勢を放棄しているわけで、実に嘆かわしい現実であると言わねばならない。
 データというものを部分的にではなく、全体的に捉えた時に、個々の単語が「場」の影響を受けて、それぞれの単語が担う情報が変化する。これはもはや、誰が見ても疑いようのない事実である。そうして、my father と「父」とが、ある条件下ではまったく同じ情報を担うことになる。もちろん、このように単純なものにかぎらず、複雑になっても事情は同じである。どんなに複雑になっても、[J+]+[J-] = [A+]+[A-] = [E+] + [E-] = [F+] + [F-]という等式が成立するはずである。


 翻訳にあたって、原文に書いてあるものは基本的に全部訳さなければならない。しかし、それはあくまでもその存在理由を汲み取ってやるということであって、字面の上で何から何まで移し替えならないということではない。



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情報量理論 一からおさらい7

 VII 文法の発生


 四次元のものを一次元のデータに変換しようとすると、Vの位置をI、II、IIIのどれかに定めなくてはならない。ところが、どの言語にも一長一短がある。そこで、不都合を解消するために、それぞれの語順の欠陥を補うことができるようなルールを定める。その欠陥を補うためのルールが無数に考えられ、さらにそのひとつひとつのルールにも一長一短があるとすれば、言語が時代とともにいつ果てるともない変遷を重ね、現在あるような多様性を獲得したことは想像にかたくない。
 犬のことをフランス語ではchien、スペイン語ではperro、イタリア語ではcane、ドイツ語では Hund、フィンランド語ではkoiraと言う。そのどれもが英語のdogからは想像もつかない形をしている。しかし、そのような呼称のちがいは言語と言語とを分けるものとして何ら本質的なものではない。
 これが猫になれば、それぞれ、chat、gato、gatto、Katze、kissaとなって、もともとは同じことばから出たものであることは容易に見当がつく。
 問題はむしろ、英語を含めてこの6つの単語が語源を同じくするものでありながら、複数形の成り立ちが異なっている。
 ドイツ語には雄猫を表す語もないではないが、通常は雌の形が両方を代表する。不定冠詞や定冠詞がつくと、それぞれeine Katze、die Katzeとなり、このeine やdieが変化して格を表す。
 フィンランド語は、このなかでは唯一冠詞がない言語で、その代わりに単数合わせて約30通りにも及ぶ複雑な格変化をする。
 文法というものに、無意味に複雑なものは何ひとつない。何かを複雑にすれば、何かがわかりやすくなり、何かが単純になる。名詞に男性形と女性形があれば、その分複雑にはなるが、それを代名詞で受けた時に何を指すか判断に迷うことが少なくなる。
 話の流れを作る手段として、語順、格変化、「でにをは」などの助詞、冠詞などが考えられる。語順が自由にならず、格変化も助詞もない英語のような言語には、必然的に冠詞が必要になる。
 目的を達成することができさえすれば、文法は単純な方がよいに決まっている。だから、語順が自由になって、格変化や助詞が発達していて、しかも冠詞があるなんて言語は存在しない。



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情報量理論 一からおさらい VI


VI データの制約


 われわれが思ったり考えたりすることは四次元のものであるのに、言語というデータは一次元のものである。基本的にわれわれが知覚する現実は三次元空間で、それに時間が加わるため、ほぼ四次元であると考えてよい。ところが、それを言語というデータに定着させようとすると、どうしても一次元のものにせざるをえない。言語というものが話しことばから始まったものであり、もともとは音声言語であるかぎり、二重奏、三重奏はありえない。どの言語も一本の直線の上に書かれたものとなる。
 四次元の情報を一次元のデータにして伝達するものであるから、できるだけ小さなエネルギーで、できるだけ多くのことを、できるだけ正確に伝えることができるものでなければならない。
 四次元のものを一次元のデータに定着させるにあたって、まず問題になるのは、データを構成する要素をどの順に並べるかということである。具体的には、「何が」、「どうする(どうした)」に相当する要素をどの位置にもってくるのがよいか、さらには「いつ、どこで、何のために、何によって」をどこにもってくるのがよいかが重要な問題となる。
 言語が一次元のものである以上、「どうする(どうした)」に相当する要素、一般に動詞、述語と呼ばれるもの(V)をどの位置にもってくるかを、少なくともある程度は決めてしまわなければならない。このVがいわゆる主語と呼ばれるものの次に来るか、文の最後に来るか、それとも文の初めに来るか、大きくみてこの3通りの構造しか考えられないことになる。


 I   NV・・・・・
 II   N・・・・・・V
 III  VN・・・・・・


 主語と呼ばれるものは基本的に名詞であるので、これをNと表記することにし、言語によってはこれを諸略することもできるので、その場合には隠れた主語としてOと表記することにする。
 このように、Vの位置だけをとっても、データの形式が大きく異なっていることがわかる。言語のちがいとはつまるところ、データの形式のちがいなのである。
 世界には実にさまざまな言語が存在する。フランス語、ドイツ語、英語、スウェーデン語、ノルウェー語、デンマーク語などは明らかにIに属する。スペイン語、イタリア語のようなラテン系の諸語や、ロシア語などのスラブ諸語をはじめ、ヨーロッパのほとんどの言語がIに属し、IIに属するものには、日本語、韓国語のほか、ヒンディー語、ネパール語、シンハラ語などがある。IIIに属するものは比較的少ないが、アラビア語、ヘブライ語、ゲール語などがある。北京語、上海語、広東語、台湾語、タイ語、ラオス語、ベトナム語など位置語と呼ばれるものも、Iに属すると考えてよい。


 さて、この動詞の位置によって、その言語の「運命」が大きく変わってくる。それぞれに一長一短があり、どの位置関係がよいとは言違いには言えない。
 日本語のように動詞を最後にもってくる言語では、動詞を連用形に活用させて次の文につなぐことが可能になるが、主語の次に動詞をもってくる言語では、動詞を連用形に活用させて次の文につなぐことができないため、必然的に独立した接続詞が発達することになる。
 主語、動詞のように並べていくのが論理的だという見方もあるが、「デパートで今日のおかず」まで聞いた時点で、そのあとに「買う」が来ることはほぼ見当がつく。このように、時間、場所などの背景(C)をまず出してきて、次に名詞(N)、最後に動詞(V)をもってくるのは、必要な情報を伝達するうえでは合理的であるとも言える。


 現在、「わが国の経済、また教育の問題を考えるに」の「、また」や、「現在の生活が苦しいこと、および将来に希望がもてないことが」(「現在の生活が苦しく、将来に希望がもてないことが」で十分)のように、動詞で終わる日本語の特質を無視するような文を使う人が多くなっている。一部の人が特に何かを強調する目的で使うならいざ知らず、このような文を当たり前のように使うのは、動詞で終わる言語のせっかくの利点をドブに捨てるようなものである。
 また、語順が自由になるということは、あくまで文法的に可能であるというだけのことであって、語順をいい加減に考えてもいいということではけっしてない。
 ことばというものは、情報を伝達しようとする相手ができるだけ早く、話の流れについてきやすいように構成するべきものである。文法的に語順が自由であるということは、その自由の裏に、できるだけ相手がついてきやすい語順にする責任があるということである。
 その点、日本語ほどには語順が自由にならない英語にはその責任が少ないと言える。もっとも、英語ではその代わりに、冠詞をきっちりしんければ話の流れが作れないようになっている。



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