情報量理論 一からおさらい1

 情報量理論の宇宙


 情報量理論はもともと、翻訳者を冤罪から救うために提唱したものである。


 翻訳者の日本語のひどさに業を煮やした翻訳会社の社長に招かれてセミナーをさせていただいた時、たまたま課題文に出てきた natural resources を単に「資源」とした訳に対して、翻訳者の一人がつっかかってきた。
「原文にちゃんと天然資源と書いてあるではないか。本人がそれなりの思いをこめたものを、翻訳者が勝手に省略する権利があるのか」
 なにしろ、もの凄い剣幕なので、私もいささか動揺してしまった。
 セミナーで申し上げたことをお聴きになっていらっしゃらないのですかとでも言えばよかったのかもしれない。唯、その時の私はまだ この文中のnatural resources を単に資源としてよい根拠を感覚でしか捉えておらず、訳す意味がないとしか申し上げることができなかった。幸い、社長さんが「それは訳さなくていい。訳したら、うちでは使いません」と言ってくださったので、どうにか火の粉をふりはらうことができた。
 ここでは、われわれの方が強い立場にあったからよかったものの、もしも立場が逆だったら、翻訳者が原文にある語を訳さない欠陥翻訳者であるという冤罪を着せられることになったはずである。


 セミナーでは、お父さんと your father について、文字の上に現われない情報についてお話をさせていただいた。誰のお父さんとは言ってはいなくても、相手の目を見て、しかも敬意をこめて「お父さん」と言えば、「あなた」のお父さんに決まっている。もちろん、兄弟同士で「お父さん」と言えば、our fatherになる。逆に英語の your father には文字の上では敬意を表す要素はないけれども、それは声の調子や態度で表すことができる。
 そこまで言えば、natural resources を資源としてよいことくらい、自ずとわかりそうなものだと思っていたのが甘かった。
 もっともっと隙のない理論を構築していかねば。この時、そう決意を新たにしたのであった。


 情報量理論をまとめようとする時、いつも頭を悩ますのが、いわゆる堂々巡りである。Aを説明しようとすれば、先にBに言及するのがわかりやすく、Bを説明しようとすると、Cが、Cを説明しようとするとAが必要になる。これでは、いつまで経っても始めることができない。


 もっとも、いつまでもそんなことを言ってられないので、とりあえずは、言語の本質から始めてみることにしよう。


 I 原風景
 翻訳を考えるにはまず言語とは何かを明らかにしておかなければならない。
 私たちは日常、何かを考え、何かを思う、こうして、あらゆる瞬間に心のに去来するもの、思想、信条、思考、理念、感情、情念、生理なども含め、頭で考えたことや、心に浮かんだもののことを「原風景」と捉えることにする。
 この原風景というものはあまりにも混沌としており、とりとめがない。心に浮かんだものには形もなければ色もない。他人に伝達するには、それを音声ないし文字のかたちにしなければならない。こうして、原風景を音声ないし文字というデータに定着させたものが言語である。
 さて、この原風景というものは、翻訳を考えるうえでも外国語を理解するうえでもとても大切なもので、ともすれば、原風景をそっちのけにして、文法の理解や構文の解釈に終始することがあまりにも多い。まさに本末転倒と言わざるをえない。


 


にほんブログ村 英語ブログ 英語 通訳・翻訳へ
にほんブログ村