情報量理論 一からおさらい5

 V 文法と形式(つづき)



 原風景Pを任意の言語LのデータLdに定着させるには、この原風景を再現するのに必要な情報Iのうち、どの要素をわかりきったもの(I-)として文字の上には表さず(L-)、どの要素を有用な情報(I+)として文字の上に表す(L+)かという取捨選択が重要となるだけでなく、そのI+をどのような形式のL+として表すかということも、それに劣らず重要である。
 データLdからは文字の上に現われた情報L+と、文字の上には表れない情報L-とを併せた情報、[L+]+[L-]=Iが読み取れる。日本語では手を洗いなさいと言う時に、石鹸はJ+、水はJ-で表される。言語が異なっても、[J+]+[J-]=I、[E+]+[E-]=Iであれば、[J+]+[J-]=[E+]+[E-]となり、同じ情報を伝えることができ、ひいては同じ原風景を再現することができる。
同じ言語のなかでも、[L’+]+[L’-]=I、「[L’’+]+[L’’-]=Iとすることが可能であり、そのようなものが形式のちがいであると考えることができる。[
 


 








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情報量理論 一からおさらい4

 V 文法と形式


 音声ないし文字による情報伝達を考える時、情報と文法の対立だけでは解決しない問題がある。
 文法が法律であるとすれば、形式は慣習、慣例のようなものであり、裁判での範例と考えてもよい。法律には触れなく手も、世間から白い目で見られる行為はいくらでもある。
「スペイン語がとてもお上手ですね」をスペイン語で言おうとすると、文法的には次の6通りの語順が可能になる。
 ほぼ、You speak Spanish very well. の語順にかぎられる英語に比べれば、ずいぶん自由度が高いように感じられる。


Ud. habla español muy bien.
Ud. habla muy bien español.
Habla español muy bien Ud.
Habla muy bien español Ud.
Habla Ud. muy bien español.
Habla Ud. español muy bien.


ところが実際には、ごくふつうに言おうとすると、Habla Ud. muy bien español. 以外の語順はまずありえない。ほかの語順では、外国人のスペイン語という印象を免れない。もちろん、スペイン語の母語話者が相手に言い含めるように言おうとすれば、Ud. habla español muy bien. の語順もありえなくはない。唯、それはふつうの語順ではない。
 文法的には可能であるのに、実際にはありえにくいということは、文法を包含し、それよりも上位にあって文を支配する何かが存在するということである。その何かを形式と捉えることができる。ここで、形式と文法との関係は、「形式⊃文法」となる。
 文法が法律であるとすれば、形式は慣習、慣例のようなものであり、裁判での判例に相当するものと考えてもよい。
 学校では、情報処理の問題以前に、この形式を教えられていないので、文法知識を頼りにいくら頑張ってみたところで、「そんな言い方はしない」と返されてしまうのである。
 形式というものは、言語によって異なるだけでなく、それぞれの言語のなかにも、分野や状況によってさまざまな形式が存在する。


 日本語で「石鹸で手を洗いなさい」と言うのを、英語では、Wash your hands with soap and wáter.という。
 英語には wáter があるが、日本語には水がない。ないからと言って、日本語を聞いた子どもと英語を聞いた子どもが異なる行為をするわけではない。まったく同じ行為をする。ということは、まったく同じ原風景が再現されたということである。
 この原風景Pを再現することができるように構成したデータLdが、日本語では「石鹸で手を洗いなさい」(Jd)、英語では Wash your hands with soap and wáter. (Ed)となる。これは、原風景を再構成できるようデータに加えるべき要素が、それぞれの言語であらかじめ決まっているということでもある。暗黙の了解のうちに決まっているものもあれば、使う人によってまちまちであるものもある。
 どちらの文も、文法的にどうしても変えることのできない部分がある。日本語の文を「石鹸を手で洗いなさい」と言うことはできない。ただし、文法的にまちがっていなければ、どんな言い方をしてもいいことにはならない。「石鹸を使って手を洗いなさい」でも、「石鹸と水で手を洗いなさい」でも、文法的に何ら問題はないが、ごくふつうに使う文としては日本語の形式になっていない。
 ここで、断っておきたいのは、あくまでごくふつうに使う文としてはという条件の下での話であって、話し手の意図によっては、「(お湯だったら石鹸がなくてもいいけど、今、お湯が出ないから、)石鹸と水で手を洗いなさい」と言うこともありえなくはない。しかし、その文(Jd)は Wash your hands with wáter and soap. (Ed)とは等価ではない。
 日常、ごくふつうに使う文を基本体とすれば、「石鹸と水で手を洗いなさい」は話し手が何らかの意図をこめた効果体になっている。
 形式をはずしてしまうと、その文を受け取った相手は、ほかに何か特別な意味がこめられているのではないかと勘ぐってしまう。「石鹸と水で手を洗いなさい」と言われれば、「水で」という部分に困惑し、もしかしたら「お湯を使ったらもったいないから、水で洗いなさいよ」ということではないかと、思いを巡られる人もいよう。
 味方を変えれば、「石鹸を手で洗いなさい」などという文法上の誤りは簡単に修正がきく。何を伝えたいのかは容易にわかる。相手が外国人であれば、なおさらである。
 ところが、形式をはずされると、相手の真意を理解するのに苦労する。その意味で、形式は情報伝達にとって文法以上に重要なものである。
 綿矢りさが、日本語では「あげるよ」という言い方をするのに対して、英語では「取っておいて」のように情報の送り手と受け手との関係が逆になる言い方をすることを取り上げて、文化のちがいであると言っている。私もスペインで同じことを経験したが、文化のちがいなどとは思わなかった。むしろ、かくも形式がちがうものかと、スペイン語への関心を新たにしたものである。ちなみに、日本語でも畏まった場では「どうぞ、お収めください」と言う。






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情報量理論 一からおさらい3


 IV 情報と文法
 母語にせよ外国語にせよ、ことばを習得し、運用することを考える時、ことばが伝達の手段であることを忘れては、もうそこから先には一歩たりとも前に進むことがない。
 ところが、ことばには文法というやっかいなルールがあって、そのルールに従わなければならない。ルールは生活につきものである。ルールを知らなければ道を歩くこともできない。交通規則や道路標識がわからなければ、行きたいところに行くこともできない。
 情報とはいわば目的地、文法とは交通規則や道路標識のようなものだと考えればよい。私たちは交通ルールをあまり苦にしてはいない。たまに一方通行を苦々しく思うことはあっても、ルールをそれなりに飼いならし、逆に信号などをむしろ混乱を避ける手段として、いわば自分の味方にしてしまっている。
 赤信号や右折禁止に気を取られているうちに、目的地を忘れてしまったという話は聞いたことがない。
 ところが、学校の語学教育では、ルールを守ることばかりが大切にされる。たとえ目的地に行き着かなくてもルールさえ守っておれば、いい点がもらえる。目的地に到達しても、ルールを守らなければ零点である。
 学校では、ルールに拘泥するあまり、音声や文字によって情報を伝達し、逆にまたそこから情報を読み取るという肝心の作業が置き去りにされている。
 長い時間をかけて読み取ったのは、実は原文を支配するルールにすぎず、情報ではなかったという事態に遭遇することもまれではない。
 いったいなぜ、そういうことになるのか。ひとつには、日本語のルールと外国語のルールとがあまりにもちがいすぎるためである。ルール、ルールと口うるさく言わないと、その全体像が頭に入らないということかもしれない。もうひとつは、英語を日本語より上に置いているため、原文を支配するルールを学ぶことが目的になってしまっていることである。
 
 学校では、母語話者がそのルールの下でいかに情報を処理して相手に伝え、音声ないし文字の形でデータを受け取った者が、そこからいかに情報を読み取るかということは何も教わっていない。

 さて、この文法という名のルールは、形式と言えるものであろうか。もちろん、形式にはちがいない。形式の一部である。次に文法と形式の関係を考えることにする。

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