情報量理論 一からおさらい3


 IV 情報と文法
 母語にせよ外国語にせよ、ことばを習得し、運用することを考える時、ことばが伝達の手段であることを忘れては、もうそこから先には一歩たりとも前に進むことがない。
 ところが、ことばには文法というやっかいなルールがあって、そのルールに従わなければならない。ルールは生活につきものである。ルールを知らなければ道を歩くこともできない。交通規則や道路標識がわからなければ、行きたいところに行くこともできない。
 情報とはいわば目的地、文法とは交通規則や道路標識のようなものだと考えればよい。私たちは交通ルールをあまり苦にしてはいない。たまに一方通行を苦々しく思うことはあっても、ルールをそれなりに飼いならし、逆に信号などをむしろ混乱を避ける手段として、いわば自分の味方にしてしまっている。
 赤信号や右折禁止に気を取られているうちに、目的地を忘れてしまったという話は聞いたことがない。
 ところが、学校の語学教育では、ルールを守ることばかりが大切にされる。たとえ目的地に行き着かなくてもルールさえ守っておれば、いい点がもらえる。目的地に到達しても、ルールを守らなければ零点である。
 学校では、ルールに拘泥するあまり、音声や文字によって情報を伝達し、逆にまたそこから情報を読み取るという肝心の作業が置き去りにされている。
 長い時間をかけて読み取ったのは、実は原文を支配するルールにすぎず、情報ではなかったという事態に遭遇することもまれではない。
 いったいなぜ、そういうことになるのか。ひとつには、日本語のルールと外国語のルールとがあまりにもちがいすぎるためである。ルール、ルールと口うるさく言わないと、その全体像が頭に入らないということかもしれない。もうひとつは、英語を日本語より上に置いているため、原文を支配するルールを学ぶことが目的になってしまっていることである。
 
 学校では、母語話者がそのルールの下でいかに情報を処理して相手に伝え、音声ないし文字の形でデータを受け取った者が、そこからいかに情報を読み取るかということは何も教わっていない。

 さて、この文法という名のルールは、形式と言えるものであろうか。もちろん、形式にはちがいない。形式の一部である。次に文法と形式の関係を考えることにする。

にほんブログ村 英語ブログ 英語 通訳・翻訳へ
にほんブログ村

>