どの言語も等価


もしもアインシュタインが翻訳家だったら 〈第III部〉情報量が翻訳の宇宙を支配する (夢叶舎)
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 学校の英語の時間に聞かされたのは、英語は時制や数などをきちんと捉える言語で、日本語はいい加減な言語であるということ。さらに言えば、英語は日本語よりも優れた言語であるということ。
 英語のニュアンスは本来の日本語をゆがめてでも訳出しなければならず、逆に日本語のニュアンスをいくら苦心して英語にしてみても、英語でそんな言い方はしないと切り捨てられる。


 このような不平等、英尊和卑のはびこるところに、本当の翻訳はありえない。


 たとえば、英語には冠詞があるが、日本語には冠詞がない。その分、英語の方が緻密に現実を捉えることができると考える人がいる。実はロシア語にも冠詞がない。しかし、英語がロシア語より優れた言語であるという発言を耳にしたことはない。逆にロシア語には名詞の格変化があるが、英語にはない。それなら「てにをは」のある日本語の方がまだしもロシア語に近い。だからと言って、ロシア語>日本語>英語という序列を考える人はいない。


 言語とはいわば現実を捉える形式であって、日本語とロシア語と英語のちがいは、単に形式のちがいにすぎない。どの形式にも現実を捉えるのに一長一短はある。


 冠詞が何らかの機能を担っているのであれば、冠詞のない言語では別の要素がその機能を担っているはずだ。格変化が何らかの機能を担っているのであれば、格変化のない言語では別の要素がその機能を担っている。


 それが出発点である。
 


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